サッカーと音楽

 原です。

 ワールドカップたけなわですね。
 僕はかなりヘヴィなサッカーファンなので、今は大変な時期です。

 日本代表は負けてしまいました。非常にがっかりし、なかなかブログを更新する気も起きなかったくらいですが、今はある程度回復しました。

 負けはしましたが、僕は中田選手のプレーやその他にあらためて感動しました。
 昔から彼のことが好きで、ほぼ毎日HPはチェックしますし、彼のことが書かれた本もこれまで随分買ってきています。
 彼からは今まで色んなことを学んでいるような気もしますし、だいぶ勇気づけられている気もします。
 彼がヨーロッパに出て行って、色んなことを切り開いていくのを遠くからでも見届けることが出来たのは素晴しいことだと思っています。
 今でもセリエAのデビュー戦、あのユヴェントス戦は忘れません。半分泣きながら見ていました。
 サッカーを見てあんなに自分のことのように喜んだことはそんなにないような気がします。

 あのブラジル戦の後の中田を見て、なんというか言葉にならない感情に体中が支配され、数日それについて考えてしまいました。そして思い出すたびに涙が出そうになりました。

 もうこの話はこれくらいにします。すいません。


 さて、サッカーと音楽は、僕は似ているとよく思うのです。
 一番似ていると思う点は、「有機性」です。

 サッカーはルール上、全くフォーメーションや選手の配置が自由です。動きもほとんど制限されていません。キーパー以外の20人の選手はほとんどあらゆる動きと配置が可能なわけです。
 つまり固定化されていない、安定的なものでない、ということです。
 だがそこには、それらの自由な配置、動きを統制する一つの目的、ゴールにボールを入れるという目的があるわけです。

 安定的な構造を持っていず、常に運動し続けるが、しかしそれらの運動は常になにかしらの一定の目的に向っている。それによってまたある一定の秩序に似たものが生まれる。
 これが「有機性」ということです。

 音楽も全くそういうものです。


 サッカーが本当に好きになると、ゴールまでのプロセスがもっとも興味を惹く事柄になっていくものです。
 そのプロセスを経て、生まれるゴールは初めてカタルシスとなるわけです。
 それは例えばシンフォニーの巨大なクライマックスを聴く時の感じと決して遠くはありません。シンフォニーのクライマックスは中々やってきません。しかし迂回しながらも確実にクライマックスへは近づいていくのです。その迂回のプロセスこそが音楽においても重要です。

 ヨーロッパの文化いうのは、そういうタイプのものが多いのかもしれません。

 ポップ・ミュージックの国、アメリカのスポーツが、アメフト、バスケ、野球というような短いセットを単位とするものなのは暗示的ではないでしょうか?


 それでは。

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